高校日本史の律令制度をわかりやすく解説!
「律令制度」についてくわしく勉強する前に、どうしてそんなものをとり入れたのか、目的や出来上がるまでをざっと説明していきます。。
その上で、できあがった仕組みの具体的な内容を理解していきましょう。
ヤヤコシイ律令制度をすべてマスターするのは大変ですから、入試問題やテストで出題されやすい内容を中心に覚えていきます。
その点で過去問の演習が有効です。
やはり人の顔が見えない仕組みの話はイメージがわきません。
必ず持っている(ハズ)の、図説(カラーの、大きな図や写真のたくさんのっている参考書)をかたわらに置いて勉強しましょう。
天智天皇の肖像や田んぼの並びなんか見てるとイメージがわいてきますから。
ポイントは、どの段階でどんな内容まで出来上がったのか、整理すること。
教科書(ないし受験用参考書)の文章を読みながら、図説やまとめ本の図を参考に、マイノートを作ってみましょう。
参考書の丸写しではなく、インプットしたものを自分なりに編集してアウトプットするのがミソです。
その上で文章に書いてみると、より良いでしょう。
イラスト・似顔絵を描いて結構!
イメージ・親近感を持つことが大事です。
>>英語の偏差値が40から70に上がる方法、知りたくないですか?➡
「律令制度」とは?
律令制度とは、国を官僚(政治家・役人)が、キチンと決まった法の制度に従って、中央集権的に(地方のトップは政府が派遣し)運営するための仕組みのこと。
「律」は刑法、「令」は行政法・民法にあたります。
「律令制度」や「律令国家」という場合、701年の大宝律令完成を中心として、その考えや仕組みで運営されていた国の仕組みを指します。
時代的には奈良時代を全盛期にして、その前後の時代になります。
土地制度(戸籍の編纂~班田収授、税:租庸調の徴収、荘園の出現)
官制(二官八省など中央官制と五畿七道など地方制度)
都城制(平城京ほか)を中心にマスターしましょう。
図説に全部まとめてありますよ。
似たような用語が出てきた時、違いをおさえておきましょう。
庚午年籍と庚寅年籍とか。
正誤問題でよく出題されますからね。
律令制度ができあがるまで
律令制度成立のきっかけになったのは、6世紀末~7世紀の東アジア情勢です。
長らくバラバラだった中国を隋が統一し、朝鮮半島にまで進出してきていました。
隋は高句麗遠征に失敗して滅びましたが、唐によって高句麗は滅ぼされます。
こうした情勢をみて、日本も強力な集権国家をつくることが必要だと、強く感じました。
攻められたら大変ですからね。
それまでの「豪族の連合政権」から、中央集権国家へ、いわゆる「天皇中心の国づくり」です。
そのためには、すすんだシステムを取り入れる必要があります。
それが「律令制度」だったのです。
江戸末期に欧米列強の脅威に対抗するため、明治政府が立憲体制・中央集権国家をめざしたのと同じだと理解するとよいでしょう。
律令制成立の概略は、聖徳太子の改革→大化の改新・近江令(天智天皇)→飛鳥浄御原令(天武天皇制定・持統天皇施行)→大宝律令(刑部親王・藤原不比等)・養老律令(藤原不比等)となります。
聖徳太子の改革
聖徳太子(厩戸王)が推古天皇の摂政として推進、冠位十二階の制(603)によって人材の登用をめざします。
十七条の憲法(604)は国家官吏としての政治的・道徳的規範を示したもので、法典としての形ではありません。
遣隋使の派遣(607)は対等外交をめざしたもので、翌年の再派遣で留学生(僧)を同行させます。
大化の改新~近江朝
中大兄皇子・中臣鎌足は乙巳の変(645)で、強大化した蘇我氏を排除します。
改新の詔(646)に基本方針が示されました。
公地公民の原則・班田収授法制定がポイントです。
改新の詔や戸籍などは史料問題でよくとりあげられます。
定期テストでは、戸籍から支給される口分田の面積を計算させる、なんてこともあります。
中大兄皇子は、孝徳・斉明朝を経て天智天皇として即位後、近江令を制定(668)、初めての全国的戸籍として庚午年籍が作成されます(670)。
「姓氏の原簿として永久保存された」という点が、庚寅年籍(持統天皇:690)との見分けポイントです。
天武・持統朝
天武天皇は飛鳥浄御原令を制定します。
施行は持統朝(689)であることに注意しましょう。
八色の姓(684)で、皇族を中心とした官制に再編されます。
持統朝には、日本最初の本格的な都城である藤原京に遷都しました(694)。
律令制度の完成
大宝律令(701)・養老律令(718)制定によって、律と令がそろいました。
両律令の内容はほぼ同じと覚えて構いません。
この間に都も平城京に遷され、律令制度が完成したのです。
都の場所を地図上で選択させるのは入試で頻出ですから、要注意です。
注意すべきは、唐の律令をモデルにしながらも、日本の実情に合わせて編集されている、ということです。
人材の登用をみても、蔭位の制によって、有力者の子弟が高位高官に登りやすいといった、貴族社会を反映したものでした。
律令制度のしくみ
統治機構としては、二官八省一台五衛府となります。
そのうち重要なのは、太政官です。
太政官は、大臣・納言・弁官による、政策を決定する機関であり、その下に実務を行う八省が組織されました。
省では特に、戸籍や租税・田畑を扱う民部省、大学・文官人事が所管の式部省、外交・仏事を管轄する治部省の出題率が高いです。
地方行政では五畿七道・国郡里の行政区分、大宰府などの要地機関、国司・郡司の地方官制が挙げられます。
畿内5ヶ国は要暗記です。
国名を当てるパズルやクイズのアプリなんてのもありますから、活用して覚えてしまいましょう。
国司は中央から派遣され、郡司は旧国造系の地方有力者が世襲します。
税制については、班田収授法と租庸調制が重要です。
班田は戸籍に基づいて6年に一度、口分田の支給と収公が行われます。
造籍も6年に一度です。
計帳は庸調の賦課台帳で、毎年作成されます。
租が地方の財源、庸調は中央の財源となることは正誤問題のポイントになります。
他に民衆の負担として、雑徭(労役)・出挙(稲の強制貸付)・兵役(衛士や防人)などがありました。
律令制のおわり
こうした制度は多分に実情に合わないところも多く、ことに土地政策は奈良時代以降変化してゆきます。
三世一身法(723)、墾田永年私財法(743)を経て荘園が発生します。
班田収授は実行が困難になり、同時に税の徴収も変化をせまられます。
平安初期には、令外官(蔵人頭や検非違使など)が新設され、律令の補足・改正として「格」が、施行細則として「式」が整備されます。
この辺りは「律令制度の再編」として位置づけられます。
しかし、9世紀後半には、律令体制を支えた税の仕組み、人民支配が維持できなくなります。
そして10世紀初めより、地方行政を大幅に委任し、土地を課税の単位とするような、律令制とは国を治める原理が異なった、「王朝国家」へ移行してゆきます。
これが「律令国家」のおわりとなります。

↑のボタンから友達追加をして頂ければ、「無料」で私が英語の偏差値を40から、70.4まで上げた勉強法をお教えします!
このLINEアカウントに登録して、自動的に料金が発生することは一切ございません。
⇒センター試験の英語で「満点」を狙う回答テクニックはこちら
⇒時間がない!合格を諦めかけている受験生はこちら
⇒【1カ月で】早慶・国公立の英語長文がスラスラ読める勉強法はこちら➡
⇒【無料LINE講座!】受験英語を無料で教わりたい受験生はこちら

